1次情報にアクセスする重要性【トレーニングの質を上げるために】
コロナウイルスが猛威を奮っていますが、コロナの影響で色々なことが顕在化していると感じている中で、「情報を適切に取得して処理する能力の重要性」について痛いほど感じているので、今回はそれについて書きたいと思います。
何度かこんなツイートをしています。
トレーニングに関する情報もSNS使えば簡単に手に入る。あ、なるほどって分かった気になりがちだけど、得た情報が何故そういえるのかの根拠を自分の中で明確にしておくことはすごく大切。
そのために1次情報、つまり論文だったりその主張を裏付けているソースを読み解く力はやっぱり大切でしょう
— 佐々木俊介 Sasaki Shunsuke (@syn_1009) March 18, 2020
コロナしかりトレーニングしかり、適切な情報にアクセスできることが何より重要であるということをヒシヒシと感じる今日この頃。
1次情報から正確に情報を得られれば変な情報が入ってきたときに取捨選択ができる。
何が正しいかを常に疑いつつ、よりよい判断ができるよう日々精進。
— 佐々木俊介 Sasaki Shunsuke (@syn_1009) April 3, 2020
SNSがこれだけ発達していると、コロナもそうですがトレーニングに関する情報も様々なところで目にするようになりました。また、トレーナーの活動も制限されていることから、SNSやyoutubeなどで情報を発信されている方も少なくないかと思います。
様々な情報が多く出回っているということは、情報の受け手はなにが信頼できる情報で何が信頼できない情報なのかを見極めなければならないということです。その能力がないと「Aでは〇〇と言っていたがBでは△△と言っていた。どっちが正しいの?」というように情報に振り回されることになります。
情報は、人を介せば介するほどあやふやなものになっていきます。Aさんに話したことがBさん、CさんとつながっていきZさんまで行く頃には全く違う話になっていたという具合です。
つまり、情報を取り入れる時に重要なことは、できるかぎり1次的な情報を適切に取り入れるということです。Zさんから話を聞くよりも、Aさんから話を聞く方がより正確な情報を得ることができます。
トレーニングに関していうと、科学的な知見によって明らかにされていることは全て論文という形で世に出ています。論文も実験のデータを分析する際に筆者の解釈が入っています。従って、論文も全て正確な情報とも言い難いところもあります。それでも現在「こうした方がいい」と言われていることの多くが論文をもとにしているので、論文の情報にアクセスできるという能力は、現場で指導をする上で欠かせない能力です。
論文が全て正しいのか
論文が世に出るまでには、実験をして、データをとって分析をして論文にまとめて、それを投稿する学会に出し、査読(論文として認められるかの審査みたいなもの)を受け、査読者(審査する人)と(何度も)やりとりをし、審査を通り、校正をするというプロセスを経ています。
論文を書くって読むよりもめちゃくちゃ大変です。(これまで科学的知見を世に出していただいた全ての方々に感謝しましょう)
ただ、論文になっていることが全て正しいかというとそうではありません。実験はあくまで実験で、スポーツ現場では研究における実験では想定されていないことを鑑みて最終的な判断を下す必要があります。
例えば、「男子大学生Aグループ10人とBグループ10人に8週間トレーニングをしてAとBのトレーニングの効果を検証した」という研究があったとします。そしてこの研究の中では、トレーニング以外の活動は制限したという条件がついていたとします。この研究の結果としてAよりもBの方法の方がトレーニング効果が高かった、という結果が出たとします。ではこの方法をそのまま現場に応用していいでしょうか?
答えは否です。
まず、被験者のプロフィールを見る必要があります。男子大学生となっていますが、目の前にいる選手が中学生や高校生のジュニア世代の選手であれば、そのまま応用できるとはかぎりません。また、この実験ではトレーニング以外の活動を制限するという条件がついていましたが、実際に選手を指導するときは当然競技の練習をたくさんしています。従って、例であげた実験の方法をそのまま応用すると、競技練習の疲労も相まって、トレーニング強度が高くなりすぎる可能性もあります。
このように、論文を読めてもそれを現場に応用する時には、さらに色々な要因を加味してトレーニング内容などを判断することが求められます。
論文を解釈して現場に応用することは思っている以上に簡単ではありません。
まとめ
“科学的な”という言葉も謳われるようになっていますが、適切に情報にアクセスし、現場にある現実的な課題も加味したうえで、自分ができる最善の判断をする必要があります。実際にこれが最善だと思っていたことが、振り替えるともっとこうしていればよかったか、と思うことは多々あります。
結局、今下している判断が良かったかどうかを決めるのは先の話なので、今の下している判断の良し悪しはわかりませんが、今自分にある最善を提供できるよう心がけています。